鹿深から甲賀へ・・・
古代から未来へ |
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「甲賀」は「こうか」と呼ぶ。こうが″と濁らない。理由は次の通りだ。
甲賀町観光協会発行の忍術の絵巻物風の『申賀町観光案内書』によるとーーー
〜「日本書紀」に、鹿探という文字が初めて見られ、甲賀、甲可、甲加、甲香などの文字が見られ
ます。正徳二年、諸国郡名の呼称を統一の時も現在使用している「甲賀」の字を用い、「賀」を濁
らず、「かふか」と呼称することにしています。〜
ということである。
では、「鹿深」とは何か、というと、六世紀の末に朝鮮半島から渡来してこの地の指導者になった鹿探(かふか)臣という豪族の名前である。近江を歩いていると、いろんな所で渡来人との関わりに触れることができる。小さな島国であった日本にその昔、大陸かちのいろんな文化や技術などをもたらしてくれたのが、朝鮮半島からやってきた渡来人たちだった。
朝鮮半島の、高句麗とか新羅、百済という国々は中国の進んだ文化・文明を吸収し、自分たちの国で花咲かせていた。一方、その頃、日本を統一した大和朝廷は、そういう大陸の進んだ文化を積極的に修得しょうとしていた。
大陸からの文化・文明は日本海を渡り、たとえば若狭に上がったものは琵琶湖を経て畿内に入っていったのだが、その途中の近江は豊かな自然に恵まれた所…。ここに定住してしまった渡来人も多く、進んだ文化や技術がこの近江でも育てられていった。
鹿探臣が住みついたのが、この「甲賀」だったのである。鹿探臣はここで文化をひろめ、民を治めたのである。
耳に美しく響く「鹿探」という名前。ここから今また、夢がひろがろうとしている。
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甲賀町内の道のいたるところで
みられる「鹿深の道」の立札
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