| 秀次が築いた城下町 |
近江八幡。天正十三年(一五八五年)、豊臣秀吉の甥
の秀次が八幡山に城を築き、信長の安土城下の町衆を移
り住まわせてできた町である。城下町の町割は碁盤目状
に整然としている。当時、城下町といえば、敵の攻撃を
かわし易いように、道は見通し悪く鍵の手につけられる
ことが多かったのだが、この町の町割はわかり易い。信
長の楽市楽座の自由な気風は、町衆にも、それから秀次
にも、定着していたのかもしれない。こういうわかり易
い町割ひとつからも、合理的な町の思想が感じられる。
商いを通して、活気ある町を造ろうとした意図がうかが
える。
近江八幡はいわゆる近江商人の出身地である。ただ、
一口に近江商人といっても出身地によって、活躍の舞台
も商いの方法も違うので、ここでは、八幡商人と呼ぶこ
とにする。 |

近江商人の町はしっとりとした家並みがつづく |
楽市楽座の自由な
気風が生んだ八幡商人 |
この八幡商人の発生はハングリー精神だったといわれ
る。主の豊臣秀次を失い、保護者をなくした商人たちは
全国へ散った。行商人として天秤棒一本での出発。確か
にハングリー精神というのは、人を大きく飛躍させる力
をもっている。が、八幡商人の成功がハングリーだけで
もたらされたとは思えない。近江八幡に残る八幡商人の
足跡や、私の知る八幡の人々の気質をつぶさにみている
と、発想の柔軟さ、みたいなものを感じる。自由な精神
の持ち主たちだったのではないか。八幡商人の場合、家
康の保護があったこともあるが、江戸時代のはじめに、
もう、東南アジアとの交易の道を開いていた商人がいた
というのも、“才覚”というより、思考の柔軟さ、生き
方の積極性の方を強く感じてしまう。 |

市民の声でよみがえった八幡堀 |
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