| 日常にたゆたう豊かな時間 |
| 中主町でお庭の見事な所がもう一ヵ所ある。錦織寺(きんしょくじ)である。浄土真宗木辺派の総本山で豪壮な甍が田園の中に見える。平安時代の初めに慈覚(じかく)大師が夢のお告げで毘沙門天を刻み、安置したのが始まりという古寺である。後に親鸞上人が阿弥陀仏を安置して再興した時に天女が蓮糸で錦を織ったといい、錦織寺の名がついたという。
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| この錦織寺の庭が静寂の庭なのだ。こちらは池泉鑑賞式。池を囲んで置かれた樹木や石。静かに坐して庭を見る。懐かしいような静寂。このような「時」をすごすことを、現代では忘れてしまったな、と思う。同じような静かな時間は阿弥陀堂でも御影堂でも感じた。「あぁ、さすがに親鸞さんのお寺だな」というおもい。いつでも凡夫(ぼんぶ)を救ってくださる、安心を確認したような気分だった。
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| 錦織寺だけではない。この町では仏たちが日常の中にいらっしやる。 |

▲親鸞上人の像のたつ錦織寺 |
| たとえば乙窪の仏性寺(ぶつしょうじ)。ある時、ふいに思いたって訪ねたことがある。収蔵庫の扉は開いていた。ふくよかな円満なお顔の阿弥陀如来にはすぐに会えた。 |
| 比留田の蓮長寺では十一面観音がちょっと腰をひねった姿勢で立っていらした。優しい目もと、口もと。ひねった腰はこちらの緊張を解きほぐしてくれる…。お堂にはりついて見入っていたら、うしろで「いい仏さんでしょう」という声。檀家の方なのか、年配の男性がニコニコしながら声をかけ、それから本堂へ入っていかれた。宗教とか信仰とか、そんな枠では語れない、もっと大きな晴れ晴れとしたものをその時、感じた。
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| それは近くの薬師堂でもそうだった。眼病に霊験ありといわれる薬師如来が安置してあるお堂だ。ここは「八日の薬師さんの日しか開帳にならないんですよ」と、お詣りに来ていた女性が教えてくださったのだが、小さなお堂の中には入れるようになっていて、線香のいい香りがたちこめていた。ここでも、その女性から感じたのは、信仰というにはあまりにあっけらかんとした、日常の豊かな時間のたゆたいだった。
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| 中主町の風土、なのだろうか。 |

▲仏性寺の阿弥陀如来坐像。
中主町最大の木造仏像だ。 |